1 黙示研究の事始め

カトリック信徒です。

 

いきなりですが、「黙示文学研究」の個人的なメモとしてブログを立ち上げました。

通常ですと、黙示文学は事後預言だと解されています。

 

しかしながら正典の「黙示」は事後預言とは受け取らないという前提がこのブログを書く動機、また、より調査してみようという動機になっています。

 

ちょうど、DNAの塩基情報は必要な時に必要な部分が開かれ、アミノ酸が作り出されるのに似ていると思いました。黙示は、過去・現在・未来の歴史において普段は閉ざされ封印されていても、開示される時には開示される特定の内容を持つと思われます。

      

図はWikibooksより

ja.wikibooks.org

 

「ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」(ダニエル12・4)とはそのような意味だと思われます。※基本的には『新共同訳 聖書』から引用します。

 

参照

「この夜と朝の幻について わたしの言うことは真実だ。 しかし、お前は見たことを秘密にしておきなさい。まだその日は遠い。」(ダニエル8・26)

「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている」(ダニエル12・9)

 

実際、ダニエル自身も分からない、つまり彼にとっても理解は封じられたままということですね。

 

つまり、神が歴史において黙示の内容理解を告げられなければ、人間には通常は閉ざされ封印されたものー理解不能なもの、不可知なものーとして存在しますので、その間は、人間が造り出した一種の「預言の体を取った歴史」※だの、思弁的で超自然的宇宙論だの、合理的な理解がなされてきたのは、ある意味、封印の結果と言えます。

※vaticinium ex eventu(事後預言)というラテン語の格言もあります。合理的ですね。しかしこれでは聖書は「敬虔なる詐欺」ではないか、と思いました。

 

また、逆を言えば、封印が解かれる時には、神意によって必然的に開かれる、ということを指し示します。

 

そこで、まず、過去の歴史において、封印が解かれていき、預言が成就した出来事に特化して調べてみようと思います。

 

ここまでの論点を簡潔に言うと、前提が異なるということです。

 

①預言が当たり過ぎているから、事後預言だ、真正預言ではない、とする懐疑的な立場。

 

②成就した黙示を真正預言と素直に受け取る立場。

 

人間とは面白いもので、成就していれば「成就するなんて信じられん」と言うし、

成就しなければ「成就しなかったので信じない」と言うし、

では、どうすればいいの?と(苦笑)

いずれも、初めから「信じない」と決め込んでいるわけですね。

 

聖書を読むときに、重要なのは、逐語霊感説という文字信仰に片寄るでもなく、懐疑主義に片寄るでもなく、復活信仰(←懐疑主義はこの時点でつまづく)に照らし出されていることと、その信仰がカトリックの教導権(←プロテスタントはここでつまづく)に従うものであることが、現時点での私なりの到達点であります。

そして現在を生きる上で、「時のしるし」を識別していくことも聖霊の導きで可能になると考えます。

黙示は陰鬱で破局的だ、という一般的なイメージがありますが、「希望の書」として読むのが基本だと考えます。

 

以下、私が個人的に調査に着手していった順に記事を書いていくことにします。調査に当たってはいろいろな資料に手を付けていますが、読者の方も鵜吞みにせずに、是非「一緒に」調べていただければ、幸いです。

 

ここがおかしいのじゃないの?という突っ込みでも全然構わないので、コメントもお待ちしております。

 

主の平和