心日記 黙想 『天の星を仰ぎ見よ』
2022/11/17(木)心日記
私の希望とは何か?
それは永遠のいのちである。
子供の時から憧れていた、宇宙、いや「天」に行くことである。
その頃から世俗的なことは関心がなかったように思う。
どちらかと言うと、宇宙とか、あの世とか、ムーとかに関心があった。
なので、今は世俗的な慰めである、家族とか仕事とかには恵まれなくても
自分的には大丈夫なんだな、と確認している。
世間的・社会的な目をもって自分を見ると大丈夫かな、とか心配になるけど。
下に貼り付けた記事で・・・
神に不平を言え、というが、今は不平はない。
神に不平を言うとか、イメージとしては神に対して感情を爆発させるみたいな感じだけど、
そういう「神に(目上の者に)感情爆発」するのはなんかブレーキがかかる。
そうしようとすると、妙に無感情に冷静になる自分がいる。
そうしようとする自分を客観的に外から見つめて、
そこか冷めた目で、意地悪く言うと「冷笑的に」見ている自分
これが乖離なのか
それとも親の「支配的・冷笑的目線」を内在化してしまったのか
しかも今度は自分が見下した相手の感情爆発(SNS上でも、yoshimiでもいい、naomiでもいい)には
「支配的・冷笑的・見下し・蔑視」をもって接していないか
希望とは、疑惑や当惑を免れるようにするものでも、もちろんありません。
非常に多くの場合、希望は闇に包まれていますが、そこには確かに希望があります。
希望によって人は前に進みます。
信仰とは神との葛藤でもあります。
「信心深い」ふりをせずに、神に自分の不満をぶつけるのです。」
それが希望です。
希望とは、現実をありのままに見るのを恐れずに、その矛盾を受け入れることでもあるのです。」
「神がアブラハムに与えるしるしは、信じ続け、希望し続けるよう求める呼びかけです。「『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』……『あなたの子孫はこのようになる』」(創世記15・5)。
再び、約束が交わされます。それは、将来に向けて待ち望むことです。
神はアブラハムを幕屋から外に、まさに
「狭い視野から離れさせて」
外に連れ出し、星を見せます。
信じるためには、信仰の目で見なければなりません。
わたしたちにはただの星に見えても、
「アブラハムには神の忠実のしるしに見えた」
にちがいありません。
これが信仰です。
これこそが、各自が従うべき希望の道です。
わたしたちも星を見上げることしかできなくなったら、それこそが神を信じるときです。それはとてもすばらしいことです。希望は決して人を落胆させません。」
そうだ、はじめに戻るけど、私の希望は天に行くこと、神を見ることだ。
そう、こういう欲(希望)に忠実でなければ!
「天の星を仰ぎ見よ、あなたはそこに引き上げられる」
という声をかけているのだ。
ありがとう、神さま。
やっぱり神さまには不平は出てこないなあ(苦笑)
いや、
自分の罪ゆえに落胆したとき
周りの不信仰と無理解のゆえに落胆されられた時
「希望を邪魔するコイツラを何とかしてください、神さまなんでしょっ!」
って言えるかもしれない。
「神から子を授かることは「ほとんど不可能」に思えましたが、彼はその子を待ち望みます。アブラハムは信じます。
彼の信仰は、「不条理に思えるような希望」にも開かれていました。
それは
「この世の人間の理性、知恵、分別を超え、常識」
と見なされるものを「超えて」、不可能なことを信じる力です。
希望は新しい地平を切り開き、想像もしなかったことを夢みることを可能にします。
希望があるから、人々は「不確かな未来という暗闇」に入り、光の中を歩むことができるのです。
希望の徳はすばらしいものです。希望は人生を歩む力をふんだんに与えてくれるのです。」
私に与えられた信仰(A)は、
「この世の人間の理性、知恵、分別、常識」を超えて、
私に信じる力(B)を与えてくれている。
人生を歩む力を与えてくれる
というか、生きる力になっている
そして「失望(落胆)」という危機がアブラハムにも訪れました。
彼は神を信じ、家も土地も友人も皆、捨てました。
彼は出発し、神がお示しになった土地に到着しました。
ずいぶん時間がかかりました。
時間は経ちましたが、「約束された」子どもは授かりませんでした。
サラの胎は子を宿しませんでした。」
その時
主に不平を言うことも祈りの一つであることを、わたしたちは父アブラハムから学びます。」
そう、辛抱できなくなったその時まで、不平を取っておこう!
その時に思い起こせるように、それもまた祈りの一つだと。
良い黙想の時を与えてくれた神と、きっかけを与えてくれたマロンちゃんにも感謝!
ね、こうやって、「自分で決断して」フレネミーを切り捨て
良い友を選ばないといけないね!