4 ダニエル書の書かれた時期について

 

批評[編集]

聖書学の高等批評的研究によって、本書はマカベア書の時代に書かれたものであり、旧約聖書中もっとも新しい時代にかかれたものであるという学説もある。しかし、福音派の中には、その説を退ける教派もある[2][3]。 また、ヘレニズム期に書かれた文書を聖典と認めなかったユダヤ教聖典にダニエル書は収められているため、ヤムニア会議の頃のユダヤ人たちもダニエル書はマカベア書の時代より十分前に書かれたものであるとしていることがわかる。

ja.wikipedia.org

 

 

アレクサンドロス大王によるペルシャ遠征上において、親ペルシャエルサレムが大王の攻撃をまぬかれた理由は、大王が「ダニエル書」が見せられたためと、フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌③』にあります。

 

 

 

 

 

前6世紀前半に書かれたエゼキエル書に、ノアとモーセに並んでダニエルが登場する。

 

 

ダニエルのバビロン連行の年代は?

まず基本的な前提として、ユダの歴史に記述はあっても、他国の歴史に記述のない出来事がある、ということ。また、同じユダの歴史でも、ある書に記述はあっても、他の書には記述がない出来事もある、ということ。

 

例えば、前605年の出来事

ヨヤキムの第三年目。チェーンバイブルの注にこうある。「エホヤキムの治世の第三年—前605年。エレ25・1では第四年となっている。その相違は、ダニエル書が、即位の翌年の1月を治世一年と数えるバビロニア方式を採用したからである。」

・(第1次)バビロン捕囚—ダニエル1・1「ユダの王、ヨヤキムが即位して三年目のことであった。」

・しかし『聖書時代史 旧約篇』(山我哲雄)p-p.165-166に次のようにある。「ただしネコは、パレスチナ・シリアの支配を長く維持することはできなかった。前605年、エジプト軍は新バビロニアのネブカドネツァルにユーフラテス河畔のカルケミシュとオロンテス河畔のハマトで徹底的に打ち破られ(エレ46・2-6)、ネコはパレスチナ・シリアの放棄を余儀なくされた(王下24・7)。こうしてパレスチナは、新バビロニア支配下に入ることになる。前605年に父王の死後バビロニア王となったネブカドネツァル二世(在位前605-562年)がフィリスティアのアシュケロンを征服した時(エレ47・5-7参照)、ユダに対してまったく介入していないところを見ると、ヨヤキムはいち早くこのバビロンの新王に乗り換えたのであろう(王下24・1)」

・以下のサイトでは、

sumire.saloon.jp

■バビロン捕囚の期間については諸説ある。

 

 

始まり 終わり 期間
605年 (第1次捕囚 ) 536年 (故国への帰還) 70年
597年 (第1次捕囚または第2次捕囚 ) 538年 (故国への帰還) 59年
586年 (第2次捕囚、神殿の破壊) 538年 (故国への帰還) 48年
586年 (第2次捕囚、神殿の破壊) 516年 (神殿の再建) 70年
586年 (神殿の破壊) 515年 (神殿の再建) 71年

エルサレムの破壊は:

前586年または前587年

ユダヤ人が解放されたのは、キュロスがバビロンを征服した翌年

前538年 (現代と年の始まる時季が異なるので、1年の誤差はありえます)

バビロン捕囚(百科事典の言及)

 バビロン捕囚 バビロンほしゅう Babylonian Captivity

古代イスラエルの民がバビロニア帝国の王ネブカドネザル2世によってとらえられ、パレスティナユダ王国からバビロニア帝国の首都バビロンにつれさられた事件。前597年最初の強制移住から、前538年ペルシャ王キュロスによる捕囚民の解放までをバビロン捕囚時代とよぶ。

 前597年の第1次捕囚では、イスラエルの上層部、兵士、職人がつれさられた。前586年の第2次捕囚では、ネブカドネザルの兵士がユダ王国の首都エルサレムを破壊し、のこっていたイスラエル人の大半をバビロンにつれていった。だが、重要人物はエジプトへにげ、最下層の農民はパレスティナに残ることをゆるされた。

前582年の第3次捕囚においても、多くのイスラエル人がつれさられ、ニップルやバビロンの近郊をながれるケバル川流域の村に植民した。こうしてイスラエルは、バビロニア帝国の支配下におかれたが、前562年にネブカドネザル2世が死亡し、前539年にペルシャの王キュロスがバビロンを征服すると、帝国は崩壊した。捕囚民は解放され、故国へもどされた。

約半世紀におよぶくるしい捕囚の期間は、イスラエル人を精神的な団結と強い信仰をまもる民族にそだてた。バビロン捕囚時代は、ユダヤ民族が生まれた時期といわれる。「ユダヤ人」という語は、このときからイスラエル人の総称となった。

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 ユダヤ

■ ネブカドネザルによるエルサレム征服■
 世紀がかわり、ユダ王国がかろうじて独立をたもっている間に、中東地域の力のバランスはアッシリアからエジプトにかたむき、最終的には、カルデア人のもとで勢力をもりかえしてきたバビロニア王国にうつった。しかしユダ王国は、かつてアッシリア人服従したようにはカルデア人に屈伏しなかった。

そこで、カルデアの支配者ネブカドネザル2世は前597年、ユダの反抗に対してエルサレムを征服した。ユダの貴族、戦士、手工業者たちはバビロンにつれさられ(→ バビロン捕囚)、ネブカドネザルダビデ王家の王子ゼデキヤを傀儡(かいらい)としてユダの王位につけた。しかしそのゼデキヤも、前588年にカルデア人に対する反乱を主導した。

その2年後の前586年ネブカドネザルの軍隊はユダを征服し、エルサレムを破壊しつくした。潜在的な反乱の指導者とみなされたすべてのユダ人は、バビロンにおくられた。ほかの集団はエジプトにのがれたが、その際に彼らは、抗議する預言者エレミヤ(→ エレミヤ書)を彼の意志にさからって無理やりエジプトにつれていった。パレスティナにのこされたのは、もっともまずしい小作人だけだった。

バビロン捕囚は、古代イスラエルの政治的独立の終わりを意味した。ユダヤ人は、400年以上もあとになっておこる短期間のユダヤ人国家再興(ハスモン王朝)を唯一の例外として、長い間この政治的独立の喪失という運命をたどることになる。
<中略>

エルサレムへの帰還■
 前539年に、ペルシャ帝国の創建者キュロス大王がバビロンを征服した。翌年キュロスは、ユダヤ人の解放を許可する勅令を布告した。捕囚民のうち約4万2000人が、パレスティナにむけて出発した。彼らは自分たちの財産すべてと、バビロンに残留する人々が託した贈り物、そして伝承によればキュロス自身の贈り物をもたずさえて、帰還した。故郷は、カルデア人に破壊されたままの廃墟だった。帰還者たちは、これからとりくまねばならない膨大な仕事を思って、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。

帰還民たちにひろまった意気消沈は、しかし、2人の宗教的指導者、預言者ハガイ(→ハガイ書)とゼカリヤ(→ ゼカリヤ書)によってふたたび活気をとりもどした。彼らは、かつてエゼキエルがしたように、宗教的生活による救いを約束したのである。ユダヤ人は、ダビデ王家の血をひくゼルバベルの指導のもとに、神殿再建にとりくんだ。こうして前516年に、第2神殿が完成した。ユダヤ教の伝統では、この年がバビロン捕囚の真の終わりとみなされている。すなわちバビロン捕囚は、前586~前516年の70年間つづいたのである。

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 バビロン捕囚 バビロンほしゅう Babylonian Exile(Captivity)

バビロニア人が,ユダとエルサレムの住民の大多数を捕らえバビロニアに移した事件のこと。〈バビロニア捕囚〉ともいい,第1次捕囚(前597)または第2次捕囚(前586)から,キュロスの神殿再建許可の勅令(前538)または神殿完成(前515)までをイスラエル史における〈バビロン捕囚時代〉という。

アッシリアによる北イスラエル10部族の捕囚(《列王紀》下15)と北イスラエル王国の滅亡(前722)に続く世紀,アッシリアの衰退後,南ユダ王国の国力回復の試みは,ヨシヤ王がメギドで死んで挫折し,代わって即位したその子エホアハズもエジプトに連行されて死に,エジプトは前605年ネブカドネザルによりカルケミシュで敗れた。

ヨシヤの子エホヤキムの治世11年バビロニアエルサレムを攻囲(《列王紀》下23),その子エホヤキンは即位3ヵ月でバビロニアに降服(同,24),王と母,従者のほか神殿と宮殿の宝物とともに1万人が捕囚された。残った者は貧しい者のみであった(第1次捕囚)。

さらにゼデキヤ王の11年エルサレムは陥落(《列王紀》下25),王と住民の多くは捕らえられて移され(第2次捕囚),残った貧民はブドウ栽培者,農夫となった。なお〈教皇のバビロン捕囚〉と呼ばれる事件は〈アビニョン捕囚〉の項を参照。
〈 西村 俊昭 〉

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 バビロン捕囚Babylonian Exile

古代イスラエル民族のユダ王国新バビロニア王国によって征服された際、多くの住民がバビロンへ強制移住させられた事件。紀元前597年新バビロニアの王ネブカドネザル2世の攻撃を受けたユダ王エホヤキンは降伏し、数千人の貴族、聖職者および中産階級の国民とともにバビロンに連行された。その後、ユダは半独立国の地位にとどまり、王位はゼデキアに継承されたが、彼が反バビロニア派に動かされ、反乱に加担したため、ネブカドネザル2世はふたたびエルサレムを略奪し、建物を焼き、砦(とりで)を撤去し、住民の大部分を捕囚の身とした(前586)。

逃亡を図ったゼデキアはエリコで捕らえられ、目の前で家族全員が虐殺され、自らは盲人とされ、足械(あしかせ)をかけられてバビロンへ連行されたという(『旧約聖書』列王紀)。その後、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの王キロス2世が前538年に発した「民族解放令」によって帰還を許された。

バビロン捕囚はイスラエル人にとって大きな民族的苦難であったが、この間の精神的労苦はかえって民族の一致を強め、信仰を純化する端緒となった。また、それ以前に書かれてきた『旧約聖書』の律法書、歴史書、預言書、詩などが集成された時期としても重要な意義をもっている。バビロンから帰還後、国家建設はならなかったが、エルサレムに再建した神殿を中心としたユダヤ教団が成立し、彼らはユダヤ人とよばれるようになった。
〈漆原隆一〉

(C)小学館 スーパー・ニッポニカ2001

百科事典による、聖書への言及:その他

 ネブカドネザル[2世] Nebuchadnezzar II

新バビロニアの王。在位,前604‐前562年。正しくはナブー・クドゥリ・ウスル Nabu‐kudurri‐uour。父王ナボポラッサルの晩年には皇太子としてバビロン軍を率い,たびたび遠征に出た。父王の後を継いで王となった後も,メディアとの同盟関係のおかげで東方の守りを心配することなく,ほぼ毎年シリア,パレスティナ方面に遠征を重ねた。その主たる目的はバビロン軍の力の示威と朝貢国からの貢物の取立てであった。

43年に及ぶその治世の中で比較的知られているのは最初の10年ほどで,前604年のアシュケロンの破壊,前601年の対エジプト戦での敗北,前598年のエルサレム攻囲(このときユダ王エホヤキンほかを捕囚として連れ去り,代りにゼデキヤを王に据えた。《列王紀》下24:10~17)などが特に注目される。

その後テュロスの攻囲,小アジアにおけるメディアとリュディアの国境争いの調停などあるが,とりわけ前586年のエルサレム破壊といわゆるバビロン捕囚を挙げなければならない(《列王紀》下25:1~22)。このような数次の遠征により得た財宝で諸神殿の再建,首都バビロンの建設,王宮の造営などを行った。こうして彼の治世は長いバビロンの歴史の中でも最も栄えた時期となり,その支配領域もメソポタミアを中心に東はアラプハ,西はガザ,南東はスーサ,南はペルシア湾上の島々にまで及んだ。
中田一郎

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 ネブカドネザル(2世) Nabu-kudurri-usur Ⅱ

(?―前562)新バビロニア王国の王(在位前605~前562)。彼は紀元前605年、皇太子として軍を率い、カルケミシュの戦いでエジプトを大破した。その直後、新バビロニア創始者である父王ナボポラサルの意志を継いで即位したのだが、その後の彼の軍事行動について彼自身はなんの記録も残していない。

ただし、『旧約聖書』とギリシア人による記録から、前598年にユダ王国を服属せしめ、さらに前587年にはなおも反抗するユダを攻撃し、エルサレムを陥落させて多くの民を捕囚に拉致(らち)したこと(バビロン捕囚)、またそれと並んで、フェニキア人の町ティルス(ツロ)を長期にわたる包囲のすえに征服したことが知られている。

しかし彼は全体として軍事による領土拡張政策はとらず、国の防衛を確保したうえで(たとえばティグリス川からユーフラテス川に至る対メディア防壁)、むしろ文化振興政策を促進させた。たとえば首都バビロンに、91メートルにも及ぶ塔を中心とした壮大なマルドゥク(バビロンの主神)神殿を建立し、通りは釉薬(ゆうやく)をかけた焼成れんがが種々に飾られていた。また諸都市を整備し、灌漑(かんがい)設備を整えて農業生産性を高め、種々の交易を促進させ、バビロニアを当時のオリエント世界随一の豊かな国にした。

彼の個人的ひととなりについて多くは知られていない。しかし、自らの名声の宣揚よりも神々の力の賛美を心がけた彼が宗教心あふれる王であったことは疑いない。なお、『旧約聖書』「ダニエル書」に描かれるネブカドネザルの姿には、歴史的にみれば、バビロニア最後の王ナボニドゥスとの混同がある。
→バビロン〈月本昭男〉

(C)小学館 スーパー・ニッポニカ2001

 ナボポラッサル Nabopolassar - 

新バビロニアの王。在位,前625‐前605年。正確にはナブー・アプラ・ウスルNabu‐apla‐usur。カルデア人ヤキン族の出身。アッシリアの宗主権下で海国の首長の地位にあったが,同帝国最後の英王アッシュールバニパルとバビロンにおけるその傀儡(かいらい)であったカンダラーヌ Kandalanuの死後1年を経てバビロンの王位に就き,新バビロニア王朝(カルデア王朝)を建設した。

即位後の10年近くはアッシリアの執拗な反撃に耐えて,もっぱら政権の維持・確立に努めたが,治世10年ころからは攻勢に転じ,毎年のごとくティグリス川沿いあるいはユーフラテス川沿いにアッシリア遠征を行った。メディアがバビロンと時を同じくしてアッシリア侵攻を開始,前614年にはアッシュールの町を陥落させた。

この年ナボポラッサルはメディア王キュアクサレスと同盟を結び,皇太子ネブカドネザル(後のネブカドネザル2世)とキュアクサレスの娘アミティスとの結婚によりこれをいっそう強化した。前612年にメディア(ウンマンマンダ)と共同でアッシリアの首都ニネベを陥落させた。

アッシリア帝国の残党はハランに逃亡し,アッシュールウバリト2世を王に立てて政権を維持したため,この後のバビロン軍の遠征はユーフラテス川流域に集中した。この遠征は必然的にシリア・パレスティナをその勢力範囲とするエジプトとの衝突を引き起こすことになった。

なかでも治世最後の年にその皇太子ネブカドネザルが率いる軍とエジプト軍の間で戦われたカルケミシュの戦(前605)は有名で,ネコ2世の率いるエジプト軍は大敗を喫した。旧約聖書《列王紀》下24章7節はこの戦いに言及しているものと考えられる。こうしてナボポラッサルは次王ネブカドネザル2世治下の繁栄の基礎を築いた。

中田 一郎

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(引用終わり)

 

特に興味深いのが「ネブカドネザル2世」の項目の

父王の後を継いで王となった後も,メディアとの同盟関係のおかげで東方の守りを心配することなく,ほぼ毎年シリア,パレスティナ方面に遠征を重ねた。その主たる目的はバビロン軍の力の示威と朝貢国からの貢物の取立てであった。

43年に及ぶその治世の中で比較的知られているのは最初の10年ほどで,前604年のアシュケロンの破壊,前601年の対エジプト戦での敗北,前598年のエルサレム攻囲(このときユダ王エホヤキンほかを捕囚として連れ去り,代りにゼデキヤを王に据えた。《列王紀》下24:10~17)などが特に注目される

ネブカドネツァル2世は「ほぼ毎年、シリア、パレスチナ方面に遠征」したとあります。前605年の第1次バビロン捕囚は特に注目されていたわけでもなく、またアシュケロンの破壊の前の出来事と考えられる点です。

 

 

次に引用するのはこちら

meigata-bokushin.secret.jp

(引用開始)

序2. バビロン捕囚とエルサレム陥落    

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第一次捕囚・・B.C. 605

  • バビロニヤ帝国による最初の捕囚は、ユダのエホヤキム王の第3年(前605年)に始まった(ダニ1章1節、Ⅱ歴代誌36章)。ユダはバビロンの属国となった。エルサレムはバビロンの王子ネブカデネザルによって占領されかかったが、急遽、戴冠のためにバビロンに戻らなければならないかった。このときネブカデネザルは、ユダの王族の一人であるダニエルら有能な少数の者たちを人質として連れ帰った。しかし3年後にエジプトの援助によってユダは独立を取り戻した(かに見えた)。そしてそれから3年後、ネブカデネザルの軍が再びエルサレムへ攻めてきた。

第二次捕囚・・B.C. 597 (これを第一次捕囚とする者も多い)

  • エホヤキムの死後、エホヤキンが王位につくが、わずか三ヶ月でバビロンの王ネブカデネザルとその軍隊によるエルサレムの包囲攻撃にあい、エホヤキンは投降する(Ⅱ列王記24章12~17節、エレミヤ27章16節~)。ユダ王国の上層階級―王エホヤキンを始め、その家族、軍人、職人等の1万人がバビロンの地に連れ去られ、神殿と王宮の財産のすべても奪われた。この出来事を第一次バビロン捕囚と言う者が多い。ネブカデネザル王はエホヤキンに代わってゼデキヤをユダの王(傀儡王)とした(11年間)。この間に預言者エレミヤが活躍する。ゼデキヤ即位の二年後当たり(BC.595)に、バビロンで反乱が生じ、捕囚の民の 中から偽預言者が起こって、バビロンの滅亡が近いと同胞をあおったことで逮捕され、処刑されるという事件が起こった。その知らせを聞いたエレミヤはバビロンにいる同胞に手紙を送り、偽預言者の煽動に乗らないように警告し、むしろバビロンのために平安を祈ることを勧める。なぜなら、主による解放と回復の時は、「70年」が満ちてから来るので、それまで捕囚地において平静にして主を待ち望むよう警告した。(脚注) エレミヤ書29章にはそのいきさつは詳しく記されている。このようなエレミヤの言動は、ゼデキヤ王の下にいた熱狂的な親エジプト派の憎しみを買うこととなった。

第三次捕囚・・B.C. 586 (これがバビロン捕囚の代表的な出来事である)

  • 預言者エレミヤの警告は、バビロンのくびきを従順に負うこと、決して反抗してはならない、というものであった。しかしその警告は無視されるかたちとなった。ゼデキヤ王はバビロンに反抗したため、捕らえられ、彼の子どもたちは彼の前で殺され、彼自身も両眼をえぐり取られ、鎖につながれたままバビロンへ連れて行かれた。エルサレムは陥落し、神殿は火で焼かれ、周囲の城壁はことごとく破壊された。老若男女を問わず多くの者が虐殺された。貧民を除く、すべての者たちがことごとくバビロン捕囚という憂き目に遭ったのである(Ⅱ列王記24章8~17節、エレミヤ52章17~23節)

第四次捕囚・・B.C. 583

  • エレミヤ書52章30節参照。捕囚人数は少ないが、おそらくこれは正式な兵士の数と考えられる。

    


脚注

  • エレミヤの70年の解釈として、いろいろな考え方がある。最初の捕囚をBC.605とし、捕囚からの帰還をBC.536とすれば、およそ70年になる。別の解釈によると、BC.586年のエルサレム崩壊とBC 515年の第2神殿の完成の間の年数であると言う。70という数は聖書では「完全数」なので、象徴的意味として理解し、あまり数学的正確さにとらわれなくてもよいとする見解もある。しかし、ヨシヤ王が死んだ年のBC.609年から、ペルシャの王クロスによってユダの民が捕囚から解放されたBC.539年までが、丁度70年になる。神の民が完全にリセットされるために実際に70年の歳月を要したのである。なぜ、ヨシヤ王の死んだ年から70年なのかが実は重要なのである。つまりヨシヤ王の死は神の視点からするときわめて深い意味をもった出来事だったのである。

(引用終わり)

 

前605年、ネブカドネツァル2世はエルサレムを占領しかかるも、戴冠式で急遽バビロ戻らないといけなかったわけですね。少数のエリートを連れ帰ったとあります。その中にダニエルもいたということです。

 

歴代誌下36・5-7は以下の通り。底本の列王記下とは内容に食い違いも。列王記下24・6ではヨヤキムは、バビロンへの謀反を起こしてエルサレムで死んだのですが、歴代誌下では、ネブカドネツァル2世はヨヤキムに「青銅の足枷をはめ、バビロンに引いて行った」とあります。矛盾していますが、ここではこの問題には踏み込みません。

 

「5ヨヤキムは二十五歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。彼は自分の神、主の目に悪とされることを行った。 6その彼をバビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、青銅の足枷をはめ、バビロンに引いて行った。 7ネブカドネツァルは主の神殿の祭具類もバビロンに持ち帰り、バビロンにある彼の宮殿に納めた。」